この階段を登ると…2階(当たり前)

脱・真面目、適当を目指して。

忸怩たるおもい

もっと次元の高い人格だったら、 

もっと広くて質の良い心だったら、

 

もっと役に立つことができるかもしれない。

 

けれども、私は私のレベル以上にはなれない。

 

 

忸怩たる思い、、、

 

精一杯がんばるのみですね。

 

自分との戦い。

自己不信の自分とか、自己否定の自分とか、いるけど、それも潔く認めて、

それでもきっとできる、できるから与えられているんだと、自分を鼓舞しています。

 

***

 

パラレボ理論

▼解けない問いはない
パラダイムレボリューション理論(パラレボ理論)」を感得しこの世に現してくださった宇場稔先生のご
著書
ゼロの革命/2017.5.25
宇宙聖書/2010.12.25
逆説の真理が運命を拓く宇宙の法則 前篇・後篇/2007.8

▼パラレボ理論が学べるところ
わくわく「氣」ランド | セルフ・ヒーリング実践研究会

 

 

つくづく自分が嫌になった

つくづく自分が嫌になった。

そういう心境です。

 

生きている価値はないとおもう。

そういう心境です。

 

私は自分が嫌いなんだ。

愛がない自分が。

小さい自分が。

心ない自分が。

 

がんばってもむだだ。

どうせゾンビのような生き方しかできない。

 

そう声がきこえる。

 

だけど、

(私はどうしたいのだろう)

と自分に問いかけてみる。

 

ここで腐るわけにはいかない。

 

がんばってもむだになるかもしれない。

ゾンビのような生き方しかできずに死んでいくのかもしれない。

 

だけど、

私がどうしたいのか?

が大事なのだ。

と、教室で教わっている。

 

「私はどうしたいのか?」

という言葉を今使わずにいつ使う?

今でしょ(古)

 

しょっちゅう、というか、四六時中死にたいと願っていた私が

死にたいと思わなくなってきている。

 

パラレボ理論を学び続けていると、なんだかそういうことになる、私の例でいけば。

 

何かあるたびに、自ら深い谷底に飛び降りて、腐り果てていた私が。

 

なんかちょっと違った心持ちになれるみたいだ。

 

つくづく自分が嫌になっても、、、

心の底からパワーが湧いてくるようになる。

貧弱なパワーだけど、よい。

以前の私よりずっと良い。

手料理は愛なのか

手料理は愛なのか

ある家族の映画で、食べているシーンがよく出てきて、それもコンビニ弁当ばかりを食べている家族でした。

その感想の中に、
「手料理は愛」という声を聴きました。
本当は違うことを言っていたのかもしれないけど、私にはそう聞こえたのです。

 

その瞬間、不快な感情がグワッと起きあがってくるのを感じました。
手料理は愛なんかじゃない! と。

これは……! 私の中に何かある!
知りたい……。なぜなのか?

分かるのは、母の手料理に対して恨みがあること。


というのも、
母には食に対する強いこだわりがありました。

 

基本手作り。
食品添加物は毒。
ご飯できたと言ってから2時間くらい待たされる。
無農薬、無添加バンザイ。

本格インドカレー(激辛&サラサラ)。
皆が食べてるようなお菓子やジュースなどは毒だから食べちゃダメ。

 

 

それに対して私は、

そんなの求めてねーし。
早く食わせろ、うまいもん食わせろ。
なんでうちだけ。
母は子どもの気持ちが全然分かってない。

一方的押しつけだ。

自己満足だろ

 

と、思っていたのです。


「手料理は愛」と聞いて、
なぜ不快な感情が出てきたのか、それ以上は考えても分からなかった。


次の日、歩いてる時、ふいに、私は誰かに手料理を振舞うって事、した事あったかな? と思いました。

私はびっくりしました。

ほとんど無い……。

だから分からないはずだよ、手料理を振る舞う方の気持ちが。


想像してみました。

 

もしも、私が、誰かのために、心を込めて作った料理を、

価値観の押しつけだ
そんなの求めてない

と言われたら。

 

相手の立場に立つことができなかった私。


そもそも、
相手に求める前に、
相手を糾弾する前に、


自分はどうなんだよ?


私は相当ヒドイ事をずっと母に思っていたのだとおもいました。

母に謝ろうと思う(心の中で)( ←ちゃんと伝えなよ)。

それから、「手料理を振る舞う的な行動」をしてみたいと思います。

手料理は愛なのか?

その答えを探して。

 

気づくチャンスをくれた教室に感謝して。 

それから、手料理を作って育ててくれた母に感謝して。

人間の汚さ

あまりにも、人間とはつくづく汚いと。

それは自分のことだが、なんと、心狭い人間かと。

 

自分自身の言動を見てもそうだし、

国会を見てもそうだし、

偏向報道を見てもそうだし、

すごく悲しくなる。

 

なぜ感謝できないのかな。

なぜくだらない事にこだわっていつまでも駄々こねてしまうのかな。

なぜ私はこんなに心貧しいのかな。

 

石ころの方が私などよりよっぽど上等だ。

石ころは踏まれても蹴飛ばされても、文句も言わないでただそこに在る。

 

私はとりあえず文句を言う。

怒る。

 

あまりにも、自分の汚さに、人間の汚さに辛くて。

それは私の中の善か悪かに選り分ける心癖によっているのだが、その他にどうしたらよいのか分からない……とずっと苦しいおもいだった。

 

そうだ、教えてもらっているではないか。

『ありのままを無条件に全面的に感謝と喜びで受容する』と。

 

できるわけではないけれど、善か悪かという風に自分自身が物事を決めつけているということにまず気づく事からはじめようと思った7月だった。

そして、そういう捉え方をやめていきたい。

すべてはあってあるものなのだと、納得していきたい。

 

自分を知らないという発見

過去の自分のあれこれは分かる
だけど、今の自分のことは何も分からない

 

というコトが分かった

 

過去の自分を語れても、今は?


思い込み、過去こうだったからああだったから。


でも、今は?

 

……答えられない

 

 

自分のことを知らないのだと実感した

 

今日の私は、知らない私

 

自分自身はこうだ、と思い込んでいるところがあって、その色眼鏡でみている
細かく見れば、毎日違う私なんだろうな

 

今日は笑い飛ばすことができる私
昨日はしかめっ面の私


というように。

 

 

そこに心の作用がある


私という魂を軸として


そしてそれはまたもっと大きな存在を許してくれている何かを軸として

 

そんな感じがする

 

だから、今、の私を解明していきたいな

 


何も積み上げてないと思ったけど、
何かを積み上げてこなければ、
なにも気づかなかった

 

今日、できなくても、わからなくても、
わかりたいと思っていれば
かるときがくる

 

もし明日がくれば、だけど

 

分からないまま死ぬとしても
自分を責めるのは、やめよう

 

 

自己満足だけの人生

7月14日
私は今すごくがっかりしている
そして顔が上げられない

何も分かってない
何も積み上げてない
ただ自己満足のための人生
今死んだらこんなはずじゃなかったと後悔するだろう

なぜがっかりするの?
もっとできてると思ってた

パラレボ理論というものを、私は自分に都合良い時だけ利用してきただけなんだと思った

そして食に逃げる
食べたらなんとなく満足するから


気づけただけ良かったのかも

そして、またここからはじめる
許してもらえるのならば

私が私を許す事ができれば


今日のわくわく氣ランドの授業で、
気づけた事に感謝します

 

落ち込む。でも希望もある。
越えてゆきたい。

私には純粋さがないと感じた事の顛末

小学校5年生くらいの時、
大人など二度と信用しない、と強く思った出来事があった。

大人の二枚舌。
自分かわいさの保身の癖に、如何にもそれが正論という風に、大人の都合を振りかざして。
ずるいと思った。
裏切られたという衝撃。
その不正直さが許せないと思った。
最初からいえば良かったのだ、そして私の手柄は全く無視をして。

山梨という土地はみんながみんなそういう風に見えた。
嘘つきで、閉鎖的で、排他的。
田舎の人が優しいというのは嘘である。
人間というのは、汚い。
そう思った。

私のお母さんは受け入れられなかった。
私のお母さんも受け入れなかった。
お互い様であろうが、人を見下しやがって今に見ていろよ、という気持ちはその頃にけっこう培われてきたと思う。

今に見ていろよ、上にいっていつか見下ろしてやりたい。
お前らとは違うんだよ、という気持ち。

出発点が、恨みである。

これでは人生うまくいかないのは当たり前だと知った今、この事をどう納得していけば良いのか。

ひとつは、保身のためのずるさを私は内包しているということ。
ひとつは、被害者意識によっているということ。

なぜ私はこんなに恨みに思っているのかな?

そして次の日、朝の太陽と空を見て思った。

私には純粋さがない、悔しい悲しい残念、という自己否定の想いを。

いい悪いという基準でおもっているという事がひとつ。

それから、私にとっての純粋さとはキレイな心だけの事。
裏が無い事。
それは無理、ふたつでひとつなのだから。

裏っていうか、不正直である事。
とにかく最初からすべて出していた方が誠実なんじゃないかと思う。
それだと感情むき出しなだけで、なんか違うのでは?

もっと探ると、
私は不正直だと私が認識している。
嘘をつくのは、私の保身のため、である。
だから、後ろめたいのだ。

私はあの時の大人と同じ、あれは私の心なのだ。

そういう自分を許せないのだ。

そうだよね、あの時の大人たちの中に許せない自分自身をみていたのだ。

私が私を理解して、許せたら、あの時の想いも、消化できるのかもしれない。