私には純粋さがないと感じた事の顛末
小学校5年生くらいの時、
大人など二度と信用しない、と強く思った出来事があった。
大人の二枚舌。
自分かわいさの保身の癖に、如何にもそれが正論という風に、大人の都合を振りかざして。
ずるいと思った。
裏切られたという衝撃。
その不正直さが許せないと思った。
最初からいえば良かったのだ、そして私の手柄は全く無視をして。
山梨という土地はみんながみんなそういう風に見えた。
嘘つきで、閉鎖的で、排他的。
田舎の人が優しいというのは嘘である。
人間というのは、汚い。
そう思った。
私のお母さんは受け入れられなかった。
私のお母さんも受け入れなかった。
お互い様であろうが、人を見下しやがって今に見ていろよ、という気持ちはその頃にけっこう培われてきたと思う。
今に見ていろよ、上にいっていつか見下ろしてやりたい。
お前らとは違うんだよ、という気持ち。
出発点が、恨みである。
これでは人生うまくいかないのは当たり前だと知った今、この事をどう納得していけば良いのか。
ひとつは、保身のためのずるさを私は内包しているということ。
ひとつは、被害者意識によっているということ。
なぜ私はこんなに恨みに思っているのかな?
そして次の日、朝の太陽と空を見て思った。
私には純粋さがない、悔しい悲しい残念、という自己否定の想いを。
いい悪いという基準でおもっているという事がひとつ。
それから、私にとっての純粋さとはキレイな心だけの事。
裏が無い事。
それは無理、ふたつでひとつなのだから。
裏っていうか、不正直である事。
とにかく最初からすべて出していた方が誠実なんじゃないかと思う。
それだと感情むき出しなだけで、なんか違うのでは?
もっと探ると、
私は不正直だと私が認識している。
嘘をつくのは、私の保身のため、である。
だから、後ろめたいのだ。
私はあの時の大人と同じ、あれは私の心なのだ。
そういう自分を許せないのだ。
そうだよね、あの時の大人たちの中に許せない自分自身をみていたのだ。
私が私を理解して、許せたら、あの時の想いも、消化できるのかもしれない。