私と母
皆さんは、この世に生まれる前にはどこにいましたか?
そう。お母さんのお腹の中です。
基本的には、皆例外なく。
私はパラレボ理論に出会って、母が自分の人生の出発点だから母への思いがネガティブならば、そこから広がる人生はネガティブに、ポジティブならばポジティブに広がっていくのだ、という事を理論的に教えていただきました。
本当にそうだと思いました。
私は母のことが大嫌いという事実と、
自分の人生がどん詰まりそうだという事実が目の前にあったからです。
病による死という王手をかけられていました。
あと一手で詰みです。
自分が間違っていたことに気づき、次に打つ手をどう指せばいいのか、今や明確に理解できました。
私の中の左翼
私の育った家は、
朝日新聞をとり、
赤旗をとっていた。
日教組のドンのお膝元でもあり、
社会の教師は、自虐の歴史観をドンドン教え、暗に共産党がいいでしょ、と示唆する授業をしていた。
共産党は一見いい事を言っているように見えるのに、なぜみんな投票しないのか? という疑問はあった。
もしも共産主義の社会になったとしたら、世界は灰色だな、そうなりたくはないが…とも思っていた。
しかし私は着々と、
社会に対する反骨精神を育み、
恥ずかしいと思うが、
私の中に引き合うものがあるから、そういう環境に出会い、
そういう方向に進んでいったのだ、と今、納得している。
私の中の引き合うものとは、
私を産んだ母への恨み。
それによる強烈な自己嫌悪、自己否定だ。
母への反抗心が、社会への反抗心となり、
母への復讐心が、社会への復讐心となった。
宇宙の法則であるゼロの法則を読んだ今なら分かる。
それから、以前からの素朴な疑問も解けた。
私の愚かさ故に、ということが。
それが分かって良かったと思っている。
まだ分かるレベルで良かった。それは自分を誉めたい。
這い上がれるチャンスをもらった。
私の中に左翼的心があるので、いかにして暴力的になっていくのかという心情が分かるという自分を認めたくなかったが、分かるのだから仕方ない。
認めたくなくて、共産党社民党民主党各種運動家デモなど反吐が出るほど大嫌いという気持ちが溢れ出るが、それでは同じである。
矢印が逆になっただけである。
まずは自分の中の左翼を認めて、それから、私は自由になるのだ。
成長の一歩を踏み出すのだ。
怒りと恨みは、そのまま放っておくとどんどん膨れ上がって、加速し、塊となって、鬼となるのだ。
人間は、悲しいが、修羅鬼畜となれる。
「私は正しい」と思っている人ほど危ない、私がそうだから。
気づかぬうちに修羅鬼畜となっているし、その最中にはもちろんそんな風には思ってない。
昔話でなんかあった気がする。
怒り狂った女性が、ふと鏡にうつった自分を見たら鬼となっていた。その自分の姿を見て、我に返り、悲しんで山へ逃げていってしまった、というような話。
平和のためにはどんな暴力も違法も構わないというテロのようなおかしなことになっていくのだなと思った。
そしてそれがおかしいということも分からなくなるのが怒りや恨みの感情だ。
やるべきは、それがあると認めて、怒りや恨みを解放する努力をすることだと知った。
私はそれを努力していきたいと思っている。
時々、怠けちゃうけど、そういう自分も認めて。
認知症のおばあちゃんを受け入れるココロ
うちのおばあちゃんは、だいぶ前から認知症と診断されてる。
年齢になればだれでも認知症になる、とは思う。
だって、認知の機能は落ちるから。
会話はできる。
冗談も言う、だって、自分で言って自分でウケてるし。
ブラックユーモアも冴えてる。
認知症とは、
人間の魂がそのままむきだしになっていく現象、らしい。
おばあちゃんを見ていると、本当にそうだと思う。
私にはまだおばあちゃんを受け入れられないところがある。
認知症だからかどうか分からないけど、何が嫌って、不潔になったことだ。
歯を指で掃除するとか、皮膚片をたくさん落とすとか、廊下に鼻水たらすとか、たまにウンコを落としていくとか。
だけど、嫌なところもあれば、いいところもある。
ご飯やおやつを食べる時、
「美味しいわね~」
とか、
「ありがとうございます」
と言うところだ。
感謝の気持ちや言葉が出てくること。
これってなかなかできることじゃないと思うから、素敵だと思う。
これもおばあちゃんの魂だ。
汚いのも、感謝の気持ちを持っているのも、どちらもおばあちゃんだ。
汚い、と思う自分のココロが汚いと思うんだけど、なかなか受け入れられない。
私の課題。
どうしたらいいかなあと試行錯誤中。
どちらを見ていくか、ということだと思って、感謝の気持ちを持てるおばあちゃんに尊敬の気持ちを忘れないようにしようとも思う。
おばあちゃんを見ていると、年を取ったら、頭は役に立たないということを痛感する。
頭を鍛えても意味がない。
体を鍛えても意味がない。
心だ。
心がむき出しになる。
理性やらで隠していた心が、出てくる。
心を鍛えることが、年をとっても、認知症になってもキレイに生きることができることに通じる。
ついでに言うと、今の団塊の世代の方々や、その辺りの方々には、
こういう年の取り方をしたい!というお手本になるくらいの気概がほしい。
【音楽】 想いあふれて/松浦亜弥
【本】 運のいい子をつくる「自然流」子育て/神代ゆう・御園生雅子
この本をもしも読んだなら、
きっと愛を感じることができるでしょう。
こう言うと宗教っぽく思われるのでしょうか。
わかりませんが、私のチープな表現力ではそうとしか言いようがないのです。
自分は毒親に育てられた、と思う方いたらぜひ読んでほしいと思います。
こんなに素敵な本を知らないで死んでいく人がいることが悲しいとおもいます。
著者の神代ゆう先生のお話を私は直接お聴きしていたことがあります。
わくわく「氣」ランドというセルフ・ヒーリング実践研究会主催のお教室で、
代表をされていました。
私がお話を聴かせていただいていたのは、ほんの3年くらいでした。
神代先生は、今はこの世にはいませんが、不思議なのですが、心の中にいつも存在があるような気がします。
この不思議な感じは、他になんと言ったらいいのかわかりません。
私は、
この本を読むと、「私」に戻れる。
どんなにささくれても、「私」に戻れる。
本の中身は「愛」です。
愛が分からないという方も、読んでみてください。