この階段を登ると…2階(当たり前)

脱・真面目、適当を目指して。

寂しさの攻略法

苦しい苦しい苦しい9月。


昨日の夜はあまりに寂しくて、ほとんど眠れませんでした。
あまりに心が辛くて、疲れている母にマッサージしてもらってようやく眠れました。
甘ったれてますね。
子供か! と読んでくださっている皆様に代わって自分で突っ込んでおきます。

頭を壁にガンガン打ちつけておきます(←そこまでは求められてない)。

 

寂しさの先に、怨みがあります。
もうほとんど修羅鬼畜に近いですね、心情は。
クレイモアでいう、あのギリギリライン。
あのマンガ、そういう気持ちをすごいよく表していると思います。

 

すべて求める気持ちがあるから故と、今朝、目が覚めました。


求める気持ちが少しでもあれば、辛くなる他ないのだと。


ここは、自分に厳しくすべきところであったと思いました。

 

甘かった。


誰も助けてくれない。

むしろ、実際のところ、助けられないのですがね。

 

誰も助けてくれなくて、良かった。

 

私も、ここで仮染の満足を得ても仕方ないと思いました。
いや、本当はずっと分かっていたのです。


けれど、誰かに縋りたいという欲に勝てませんでした。

愛がほしいよ~ばぶばぶとやっているわけです。

 

甘えていたのですね、周りにいてくれるみんなに。
みんな優しいのですよ。

 

今回は意地でした。


結果として良かったのかな?
意外です、私としては。
だって動機が恨みなんだもん。
こんなんじゃ何もかも上手くいかないとおもったんですよ。

 

でも、なんか、突き抜けたのかも。

お母さんに感謝のほかよりない。

 

そして、この拙いブログを読んでくださっている皆様のおかげなんです。

心より感謝申し上げます。

この端末の向こうにいる目に見えない皆様。

本当はいつも支えられていたのは私だったんですね。。。

ありがとうございます。

 

 

こういう感覚ははじめてです。

すごく不思議な気持ちです。

 

求める気持ちがスッとひいていき、安寧が訪れました。

 

まあ、また何回も求める気持ちになるんでしょうが。気づいてないとこばかりなのでしょうが。

でも、今日この経験ができて良かった。

 ジェットコースターライフ。

寂しさを埋められない

寂しさを埋められない

強烈に寂しい

 

今日も孤独だった

虚しくて寂しい

 

うまくやってゆけない

 

分かってる、自分のせい

いや、分かってない

 

人間関係とはなんて脆いのか

 

 

今月の最初の頃に、すごくすごく信頼している人にあることを言われて、そういう風に思われてるのかとショックを受けた

 

理解されてなかったんだと

そういう風に見えてるんだなと

 

それが私の集大成かと

 

確かに、自己中だし、がんばっても、もがいても、結局いつも自分が認められたいからだったというオチだし、人間のクズのヘドロのような存在(←そこまで言ってない)だし、それはそうなんだけど

 

それはつまり、私の理解不足だったと思って謝ったんだけど、心が納得してなかった

 

 

それはつまり、母に理解されない寂しさであろう

 

しかしながら、私の役割は、母に理解してもらうことではなくて、母を理解することだ

 

 

だからつまり、理解してと思うのは、お門違いというものだが、

私は今、強烈に寂しいし、それをどうにもできないでいる

 

心折れる

寂しさには、愛

お教室で、今月は自分にお手紙を書いてみよう!という提案がありました。

そこには、いろいろな理由と意味があるのですが、長くなるので省きます。

 

それ、なんか気が向かなくて

自由な場所なので、嫌ならしなくても全然いいんですけど、なぜこんなに嫌なのかな?って自分に聞いてみました。

 

まず、物理的にブツが残るのがやだなってこと。

ゴミで捨てて、誰かに万が一読まれたら、恥ずかしいと思ってて。

これって、パラレボ理論でいう「体主霊従」ってやつ?!とひとつ発見。

※体主霊従…心や魂が、肉体(形あるもの)の奴隷となってる事

 

それから、なぜ残るのが嫌なのかな?と。

自分の痕跡が嫌なんですね。

つまり、自分を否定してる、過去を否定してる、そんな感じがしました。

 

そう。

想いを馳せたくない。

 

あまりにも辛かった。

生きているのが。

パラレボ理論に出会う前の、あの暗黒の時代を、私はおもいだしたくない。

 

パラレボ理論に出会って、

素敵な人とたくさん出会って、

苦労してない人などいないんだと知って、

みんな努力してきたんだと知って、

私なんかが辛かったとか思ったらめっちゃ被害者意識だし、そんな資格もないような、

まあ、とにかく自分が許せないんだと思いました。

 

何が辛かったのか、自分にきいてみました。

 

ものすごい私は寂しかったんだとおもいました。

ずっとずっと寂しかった人生だったな、そういう私をずっとみじめに思ってたな、と。

 

寂しくて詐欺にもあった、人も傷つけてきた、さみしいと悟られたら負けのような気がして仮面をつけて強がっていた、人間関係をうまくやる自信がない、傷つく前に最初から一人でいた方がマシ、、、。

 

みじめだった。

 

9月前半は、環境的には、すべての人間関係がうまくいかなくなって。

家族、友人、仲間。

ものすごく孤独感を味わっていました。

みじめでした。

 

そうか、

これに気づくための、あれこれだったのだなって思い、感謝まではいかないけど、良かったんだなと思えたら、

人間関係の歯車が回り出しました

うまくいきだしたんです。

 

不思議です。

でも、これが宇宙の法則どおりに動いてるってことなんだ、と実感しました。

 

苦しいあれこれも、辛いあれこれも、私へのギフト、という意味が少しわかりました。

だって、気づけば、その前よりもずっと楽になるんですから。

 

みじめな寂しい自分に、愛を手向けたいとおもいます。

 

孤独なのは、誰かのせいではありません。

親のせいでもありません。

自分自身の愛の足らなさ故なのです。

 

寂しさを埋めるのは、形や他人や、外にあるもので埋めることはできません

 

唯一、自分が自分に愛を手向けることです。

 

「愛するとは、理解する事」とこれもパラレボ理論でハッキリと教えていただいたことです。

 

こんな風に自分を理解して、受け入れて、ゆるしていくことが、自分自身を愛するということ、のようです。

 

と、私はおもいました、チャンチャン!

 

 

 

▼パラレボ理論を学べるところ

わくわく「氣」ランド

▼本

ゼロの革命

 

認知症のおばあちゃんにキツイ言葉や態度をしなくて済む心がけ

人間誰でも歳を取ります、生きていれば。

なのに、お年寄に優しくできない。

 

自分も認知症になる、歳を取れば。

なのに、認知症の人に心がざわつく、優しくできない。

 

 

 

どうやったら、認知症のおばあちゃんが生きてる価値を感じてくれるだろうか?

 

関わる私は、どうしたらキツイ言葉や態度を改めることができるだろう?

 

とずっと悩んで(?)きました。

 

キツイ言葉や態度は、おばあちゃんを傷つけるだけでなく、自分自身を深く傷つけることでもあります。

 

そんな自分を許せなかったり、嫌悪したり、否定したりしてしまうからです。

 

 

そのなかで、人や動物、あらゆるものに、敬意を持つ心を意識することが、要かな、と思いました。

 

認知症の方のどこに敬意を持てるのか、とそれは人それぞれだと思いますが、私は、とにもかくにも生き抜いてきたことに、敬意を払いたいと思います。

 

お年寄に対してだけでなく、人や物、すべて、敬意を持って接すれば、自然と優しくなれると思うのです。

 

 生きてる中で、相対しているすべてのものに敬意を払うという心は、すごく使えます。

鍛え甲斐もあります。

 

 

なぜ敬意を持てないのか?というところから、敬意を持てる心づくりをしなければ、思おうと思ってもできません。

 

まずは、己の心を解明しなければなりません。

 

使えるのが「パラレボ理論」です。 

というか、ホントのところ、これ以外では何も解決しないと思います。

 

尊敬の気持ちを持てる人間になっていきたいです。

 

 

***

▼パラレボ理論が学べるところ
・わくわく「氣」ランド | セルフ・ヒーリング実践研究会

 

忸怩たるおもい

もっと次元の高い人格だったら、 

もっと広くて質の良い心だったら、

 

もっと役に立つことができるかもしれない。

 

けれども、私は私のレベル以上にはなれない。

 

 

忸怩たる思い、、、

 

精一杯がんばるのみですね。

 

自分との戦い。

自己不信の自分とか、自己否定の自分とか、いるけど、それも潔く認めて、

それでもきっとできる、できるから与えられているんだと、自分を鼓舞しています。

 

***

 

パラレボ理論

▼解けない問いはない
パラダイムレボリューション理論(パラレボ理論)」を感得しこの世に現してくださった宇場稔先生のご
著書
ゼロの革命/2017.5.25
宇宙聖書/2010.12.25
逆説の真理が運命を拓く宇宙の法則 前篇・後篇/2007.8

▼パラレボ理論が学べるところ
わくわく「氣」ランド | セルフ・ヒーリング実践研究会

 

 

人はうさぎ

うさぎは寂しいと死んでしまう、といいます。

ほんとかどうかは、、、知りません。

 

私は最近、「寂しさ」に出会うことが多くあります。

今までは気づかなかったことです。

 

人の中にある「寂しさ」に出会うのです。

 

という事は、私の中に「寂しさ」があるという事です。

「寂しさ」と分かるということは、あるから分かるのであって、無ければ分からないからです。

 

そして究極的には、

自分で自分を理解していくことでしか埋めることはできないのです。

 

もちろん、誰かと話したり触れ合ったりすることで癒されることはあります。

 

だけど、ホントの癒しは自分にしかできません。

人の言うあれこれは、マボロシだからです。

打ち上げ花火です。

だから、セルフ・ヒーリング。

ずっと続く花火は、自分で打ち上げればいいのです。

 

 

無自覚の寂しさ故に、詐欺に遭ったり、なんだり、そういう人生を形作っていくことになります。

私がそうだったからです。

 

人もうさぎ、そう思いました。

母という存在が真逆に変わった件

今日のセルフ・ヒーリング実践研究会主催のわくわく「氣」ランドの授業の中で。

四コマ漫画のイラストを見て、おのおのストーリーを考えるというコーナー(?)がありました。

 

私の作ったストーリーは。

 

男の子が散歩中、迷い子犬を見つけました。

お母さんを探してあげようと見回すと、犬の行列が。

あ、あそこにいるかもね?と駆け寄って、先頭の犬に、この子のお母さんですか?と聞きました。

犬は、そうです!はぐれてたのも気づかなかったわ。ありがとうございます。と答えました。

男の子は思いました、この子はきっとすごいどんくさくて、またはぐれるだろう。

そこで男の子はお母さん犬にいいました。

今日は僕がこの子を乳母車に乗せてお家まで送って行きますね、と。

終わり。

 

という話でした。

 

母犬はうちのお母さんの投影。

はぐれ犬は私。

なんだなと作ってから思いました。

 

 

そして。

教室が終わってから、母といろいろと話していて。

 

子どもが小さかった時の話を、前にも何度か聞いていた話を、また聴いただけなんですが。

 

私は、

母が後ろをふり向いて存在を確かめないのは、愛がないからだ、と思っていました。

関心がないのだ、子どもがたくさんいるから一人くらいいなくなっても分からないだろう、と思っていました。

 

だけど、違うって事が、理解できたのです。

 

そう、全く違ったのです。

 

母は、前だけを向いて必死に外敵から子ども達を守っていたのだと。

必死すぎて後ろを振り向く余裕などなかった。

 

関心がなかったわけでも、

愛がなかったわけでも、

なんでもない。

 

逆なんだ。

 

いろいろなものに、体を張って立ち向かっていてくれたのが、母だったのだ。

子ども達がちゃんとついてきてくれていると信じて。

 

自分の心の汚さを呪いたい。

私が愚かだっただけなのだ。

またまた母には心底謝らねばならない。

言葉にすると陳腐になってしまうのがもどかしい。

 

だけど、やっと、何かの端を掴めた気がしました。

私を変える、何かの。