この階段を登ると…2階(当たり前)

脱・真面目、適当を目指して。

幸せの匂い

嗅覚というのは、五感の中でも一番古い感覚だそうで、古い脳の大脳辺縁系とダイレクトにつながっているらしいです。

大脳辺縁系は、自律神経や記憶に関係しています。

その証拠に、特定の匂いを嗅ぐと思い出す光景があると思います。

例えば、雨の匂いから小学校の校庭を思い出すとか、ふとしたときに匂いから思い出す光景、ありますよね。

最近、私はカレーが、思っていたより、ずっと好きなんだなと思います。
そして、なぜ好きなんだろう??と疑問に思った時、私にとって、カレーの匂いは幸せの匂い、なんだなとおもいました。

カレー=幸せ感

という公式が私の中のどこかにあるんだと思います。

だから、夕飯時の道を歩いていて、カレーの匂いが漂ってきたりするだけで、なんだか嬉しい気持ちになるのです。

思い出せば、母のカレーは全く子ども向きではありませんでした。
母はこだわり派で、ラジオでやってたインド人が教える本格的なカレーを、そのまま作ってくれていました。
が、子どもには辛いばかりで、他に食べるものないから食べるという感じでした。

逆に祖母の家のカレーは、子ども向きのカレーでした。
遊びに行くと、祖母は必ずカレーとポテトフライとフルーツサラダを作ってくれたのです。
それは私の子供時代の幸せのひとつでした。

たまに食べる、ドロッとしていて、お肉とニンジンとじゃがいもがごろごろ入っているカレーが美味しかったからだけではありません。

祖母の家では、自由でした。
子どもらしく過ごせた時間で、いわゆる「普通」を体験できたのです。
祖母の家では、普段禁止されていることも言ったりしたりしてもいいのです、それが幸せでした。

しゃぼん玉、ジョアもこの幸せな記憶につながるものです。

匂いから、なんだか、懐かしいことを思い出しました。

そして、幸せの記憶をくれた祖母に感謝をおもいました。また母の激辛サラサラカレーが無ければ、祖母のカレーを幸せにおもう度合いがもっと低かったかも知れません。
まあ、母にも感謝しておこう(←エラソー)

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私と母 5

私の少ない友人たちの中でも特に関わりが多く仲の良い友人が教えてくれたのは、
わくわく氣ランドという教室でした。

私はそれまでにも、セラピーとか、なんとか療法とか、スピリチュアル系とか、占いとか、いろいろやってみていました。

マイブームがきては去っていく、その繰り返し。

どれもこれも大して変わらない、その時は変わったような気がするけれどまたすぐに元に戻ってしまう、、、。

かと言って宗教もいやでした。
なぜなら、救われる代わりに不自由になるのなら、救われなくても自由の方がずっといいと思うからです。
言いなりにはなれそうにありませんでした。


私なりの見分け方がありました。
依存させるものはバツ、という単純なものです。
それと、体験してみないと分からないということも学んでいました。
それは概ね、合っていたかな、と思います。

今思えば、セラピーもスピリチュアルも、本質的には全く自立の方向性ではなかったと思います。


ただ、生きている意味があるの? という素朴な疑問が解消されなければ私はどう生きていいのか分からなかったので、ずっとヒントを探していました。

それから、傷つかない心を手に入れたいとも思っていました。

それから、セラピーやらスピリチュアルやらに、苦労したね、傷ついてきたね、頑張ってるね、と言ってもらいたかった、それで自分の心を満たしたかったのです。


体験してみないと分からない、ニートの私はすぐにわくわく氣ランドに見学に行くことにしました。

そこでは、友人の言った通り、話を聴くだけ、でした。
そこで、人生の目的、を教えてもらいました。

愚かな私は、まだよく分かりませんでした。
ずっと探していた、なぜ生きているの?の答えに出会ったというのに。
続けて学ぶかも迷いました。
でも、なんだかするすると私の口が入会したいと言っていました。
とにかくやってみないと分からない。
自由な感じもありました。
ニートで良かった。暇人バンザイ。

二回目に行ったとき、母には産んでくれただけで感謝なんですよ、と教えてもらいました。
なぜなのか?も教えてもらいました。

人生の目的とセットになって、今度はよく分かりました。

私は心の底から納得し、感動し、夢中になりました。そこで教えてもらえるパラレボ理論というものに。

今までの素朴な疑問がするすると解けるのです。
面白すぎました。

超現実的で、理論的。

人生の原点である母親、そこへの気持ちが恨みならば人生は尻すぼみ、感謝ならば発展的になる、自分の人生を切り拓くには、母親への想いを感謝に変えて、親孝行していくことですと教えていただきました。

それも、やれとは言われません。

親孝行に仏像を買ってお祈りしなさい、とも言われません(笑)

愛することは理解すること、理解するにはコミュニケーション、ひたすら地味で現実的で、効果的です。

その二回目の教室の後、久しぶりに母にメールをしました。
内容は忘れましたが、元気?というようなだったかな。
続けて毎日メールを入れていた、と思います。

それから数日して、母の友人の作品展が銀座であると情報が入り、母に、一緒に行かない?とメールしました。
私は、産んで育ててくれてありがとう、と伝えるつもりでした。

続くasakatsu-sagamiono.hatenablog.com

私と母 続きの続きの続き

私が病院に行かず、薬も飲まなかった理由、、、
それは、「病は気から」を証明するため、でした。

そして、周りの人間に、ほら私の言った通りだったでしょ、私の言ってることは合ってたでしょと認めさせたかったのです。

違えば、死ぬだけでした。

自分の命を賭けて、認めさせたかったのです。

何故そんなふうに思ったのか? そこに私の課題である心の癖が顕れていました。
でもその時には気づかなかった、今ならすべて解けるのですが。。。

症状は一進一退、小康状態が続きました。
微熱は下がることなく、37度が平熱になりました。
下痢も通常スタイルに。

私は少しずつ痩せ始めました。

就活以外は、ほとんどベッドで横になっていました。
実家は山梨、私は東京で一人暮らしでした。
兄弟仲も希薄です。

そんな状態のまま、5ヶ月くらい経った頃、私のたった1人心許せる友人が、ご飯に誘ってくれました。
2011年の2月頃でした。

いつも通り、いいよと答え、ちょうど私と同じようにバイトしながらニートしていた彼女が就職する、という決断をしたということで、不安だよ、という話を聞くのかな、そうしたら大丈夫だよと励ましてあげなくっちゃと思っていました。

でも会ったら全く違ったのです。
何とかなるでしょ、大丈夫、そんな言葉を言っていたのです。

なんとかなる、そんな前向きな言葉、彼女から聞いたこと無かったので、本当にびっくりしました。そして芯からポジティブになれていなくてもそういう言葉が出てくることがすごいとおもいました。

それと同時に、なんだか今までと違って、私は何のためにご飯にきたんだろとおもいましたが、そのまま不思議な気持ちで帰宅しました。

そして2月下旬に再び彼女からランチしようとお誘いがあり、ニートの私はいいよと答えました。

それが私の生死を分ける出会いへの第一歩でした。


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私と母 続きの続き

母とどうなったかの前に、
その時の私の状況を説明しておかねばなりません……

ひとつ、病気を患っていました。
ひとつ、仕事辞めて無職でした。
ひとつ、人生の展望なし、希望なし。

もうすぐ30になる時で、私は何もかも無くなった気持ちでいました。
もう何をどうしていいのか分からない気持ちでした。
人生を立て直したいとも思えませんでした。

高校を卒業した時にそれまでの友達2人を除いてすべてアドレス帳から削除し、それ以後、新しい人間関係もうまく築けておらず、気安く遊べるのは一人いてくれましたが、あとは虚しい人間関係のみでした。

仕事も、最初の話と違う……という不平不満いっぱいで辞めました。

その時から体調も悪くなり始め、一応受診だけしました。でも私は病院で出してくれる薬で治すつもりはありませんでした。

通院しろと言うので、責められるのが怖くて、病院には薬を飲んでるとウソをついて、通院しました。

良くならないので、転院の書類を書いてあげると言われ、その機会に一切病院に行くのもやめました。

どうしてそんな選択をしたのか、普通には理解に苦しむだろうと思います。

私には理由がありました。


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私と母 続き

次の一手、最後の一手。

 

母へのそれまでの恨み・憎しみの方向性から、真逆の感謝・愛という方向に向かって歩んでいきたい、できるか分からないけど、それが自然ならばそう歩いていきたいと思いました。

 

憎しみをやめられる。

恨みをクリアーにしていくことができる。

 

希望を感じました。

やればできる、という確信が私の心で感じ取れたのです。

そういうところは自分で自分を褒めたいです( 笑 )

 

どうすればいいか?

 

教えてもらったことは簡単でした。

愛することは理解することですよ、という。

理解するには、コミュニケーションを取らなければ理解できない……。

 

母の顔も見たくありませんでした。

言葉を交わすことも、触れられることももちろんNGでした。

 

死ぬときには母に傍にいて欲しくないと思う人間でした。

なぜなら、心がざわざわして嫌な気持ちになるからです。

 

 

だけど、できることからコミュニケーションをとっていけば、

心から感謝できる日がくるという可能性がある。

 

まずは、メールからでした。

 

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私と母

皆さんは、この世に生まれる前にはどこにいましたか?
そう。お母さんのお腹の中です。
基本的には、皆例外なく。

私はパラレボ理論に出会って、母が自分の人生の出発点だから母への思いがネガティブならば、そこから広がる人生はネガティブに、ポジティブならばポジティブに広がっていくのだ、という事を理論的に教えていただきました。

本当にそうだと思いました。
私は母のことが大嫌いという事実と、
自分の人生がどん詰まりそうだという事実が目の前にあったからです。
病による死という王手をかけられていました。
あと一手で詰みです。

自分が間違っていたことに気づき、次に打つ手をどう指せばいいのか、今や明確に理解できました。


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私の中の左翼

私の育った家は、

朝日新聞をとり、

赤旗をとっていた。

 

日教組のドンのお膝元でもあり、

社会の教師は、自虐の歴史観をドンドン教え、暗に共産党がいいでしょ、と示唆する授業をしていた。

 

共産党は一見いい事を言っているように見えるのに、なぜみんな投票しないのか? という疑問はあった。

もしも共産主義の社会になったとしたら世界は灰色だな、そうなりたくはないが…とも思っていた。

 

しかし私は着々と、

社会に対する反骨精神を育み、

共産党社会党に投票するまでに成長した。

 

恥ずかしいと思うが、

私の中に引き合うものがあるから、そういう環境に出会い、

そういう方向に進んでいったのだ、と今、納得している。

 

私の中の引き合うものとは、

私を産んだ母への恨み

それによる強烈な自己嫌悪、自己否定だ。

 

母への反抗心が、社会への反抗心となり、

母への復讐心が、社会への復讐心となった。

 

宇宙の法則であるゼロの法則を読んだ今なら分かる。

それから、以前からの素朴な疑問も解けた。

 

私の愚かさ故に、ということが。

それが分かって良かったと思っている。

まだ分かるレベルで良かった。それは自分を誉めたい。

這い上がれるチャンスをもらった。

 

 

私の中に左翼的心があるので、いかにして暴力的になっていくのかという心情が分かるという自分を認めたくなかったが、分かるのだから仕方ない。

認めたくなくて、共産党社民党民主党各種運動家デモなど反吐が出るほど大嫌いという気持ちが溢れ出るが、それでは同じである。

矢印が逆になっただけである。

 

まずは自分の中の左翼を認めて、それから、私は自由になるのだ。

成長の一歩を踏み出すのだ。

 

怒りと恨みは、そのまま放っておくとどんどん膨れ上がって、加速し、塊となって、鬼となるのだ。

人間は、悲しいが、修羅鬼畜となれる。

「私は正しい」と思っている人ほど危ない、私がそうだから。

 

気づかぬうちに修羅鬼畜となっているし、その最中にはもちろんそんな風には思ってない。

 

昔話でなんかあった気がする。

怒り狂った女性が、ふと鏡にうつった自分を見たら鬼となっていた。その自分の姿を見て、我に返り、悲しんで山へ逃げていってしまった、というような話。

 

平和のためにはどんな暴力も違法も構わないというテロのようなおかしなことになっていくのだなと思った。

そしてそれがおかしいということも分からなくなるのが怒りや恨みの感情だ。

 

やるべきは、それがあると認めて、怒りや恨みを解放する努力をすることだと知った。

私はそれを努力していきたいと思っている。

時々、怠けちゃうけど、そういう自分も認めて。


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